年の瀬におもいを綴りわすれた

今年はこんな1年だったね、みたいにちょっぴりセンチメンタルになるやつ、しようと思っていたのにすっかり忘れていて気づけば1月も後半になってしまった。わたし、どんどん崩れ始めている。なんでもないテレビ番組のなんでもないシーンで突然涙が止まらなくなったり、小さな女の子が「これお姉さんの?」と拾ってくれた定期入れを受け取って、3分くらいその場から動けなくなったりする。気がつけば、絶対に戻さないと決めて食べた大好きなはずのラーメンがぐちゃぐちゃになってトイレの便器の中に浮いてるのを見つめている。これを形容する言葉が、つらい や しんどい なのか、ということがもうあまりわからない。

心が沈んでいるときは、生産が身体によいという話を聞いたのだけれど、ここまで書いて、いまのわたしにとって言葉を生産することがとても苦痛だと気づいた。以前は泉のようにあふれ出ていた言葉や感情たちが、どこを探してもみつからない。もらった優しい言葉にも、だれかの真剣な思いにも、心で返せない自分がもどかしい。なにかを考えようとして、考えようとすると、そこで苦しくなってしまう。わたしは、息をするだけの置物になってしまった。

ああ〜、どうやって生きよう。

ぶつけるならば愛

だれかのことを考えて一睡もできない夜をひさしぶりに過ごした。最初こそしくしくと泣いていたけれど途中からなんだかもうわけがわからなくなって、こんなことしてるのはわたしだけなんだろうな、とそんな卑屈なきもちがちらり顔を覗かせても、それでも考えた。

ふつう が何をさすのかわたしにはよく分からなくて、それが今までのわたしにとっての恋愛だったんだけれど、たぶんわたしはじぶんが持ってる数少ないデータだけで常識を作っていたと気づいた。好きならこうしてくれるはず、は次第に形を変えて、いつの間にか、こうしてくれなければ好きじゃない、にまで変化を遂げていた。してくれなかったことに延々と文句を言い続けてわたしの常識で縛りつけるの、めちゃくちゃに格好悪い。すごくはずかしいとおもった。じぶんの興味あるものやすきなものの方へどんどん向かっていって、わたしに知らない世界を見せてくれるところを好きになったんだよなあって、今まで何とも思わなかったものに価値が芽生えて、好きが増えていくのが嬉しかったんだよなあって、ぼんやり思い出した。すきだとおもったところを消すようなわたしではいたくないな。

さいきん喧嘩ばっかり、と言われて、ほんとにそうだね、と心で泣いた。わたしはいろんなことを求めすぎていて、ふたりが疲れていることを自覚しているのにそれでも暴力をやめない赤ちゃんだった。尖ったナイフを突きつけ合うんじゃなくて、やわらかいおまんじゅうを差し出し合うような関係でいたいよ。すきなひとがくれた、わたしといるとハッピーだよ、という言葉が本当に本当にうれしくて、もらった時も次の日の朝の通勤の電車でも泣いたの、今でも覚えているのに。もしかしたらたいした意味はない言葉だったかもしれないけれど、それでもわたしは嬉しくてたまらなかったのに。

わたしのすきばかりが積もっていくようで、ずっとこわかった。きもちが報われないことは、選ばれないことと同義なので、どこか恥ずかしく、悔しいことだと感じていた。愛をぶつけて拒絶されるのがこわくて、正面をみて向き合ったときに同じ方向を見ていない現実を突きつけられるのがこわくて、ずっとマイナスな感情ばかりぶつけていた。負の感情からくるすきやあいたいは、何の意味も持たないと知っていたのにね。

2020年は、大きな愛でもてなしていきたいな。わたしはまだまだ大人にはなれていないけれど、その分、一日が大人より相当濃ゆいんだから!大人より率直にたくさん恋できちゃうんだから!

現世では無理らしい

ふつう になりたかった。誰かを好きになって、ごはんがおいしいとか昨日見たテレビがおもしろかったとかそういうことで笑顔になれる生活。家族とすごす時間と心落ちつく時間がイコールな生活。毎日泣いたり吐いたりしない生活。好きでもない男と寝る必要も後悔の涙をストロング缶で誤魔化す必要もない生活。わたしが求めてるぜんぶは、世間では ふつう ではなくて しあわせ と呼ぶものなのかもしれない。わたしは、世の中の一握りのひとしか手に入れられることのできないものを求めて苦しいと泣きながらもがく、その他大勢のうちの一人なのかもしれない。特別なんかには一生なれないんだとおもう。

上手にできないことやわたしの頭では理解できないことが多すぎてついていけない。人を糾弾するとき、止まることなく紡がれるナイフみたいなわたしの言葉は、逆の立場になったらなんの意味も持たず、わたしは無力な置物になってしまう。じぶんが言っていることや考えていることしかわからないわたしにとって、他人のきもちを考えるという行為はあまりに難しい。できないことに理由をつけて人を傷つけてばかりいる自分も大嫌いだ。わたしが他人とするコミュニケーションは常に、対話ではなくスピーチなのかもしれない。

 

何回めかもうわからないけれど、すきなひとをすきでいるのが苦しいとまた思った。会えない夜に泣いているのはわたしだけだとおもう。会っている夜に好きだと泣く強さはわたしにはなかった。今日"は"楽しかった、みたいな、その日を生きる生活に限界を感じている。必死に掬いあげて大事に胸の奥にしまったしあわせも、次の日になれば跡形もなく消えていて、それが幻だったと気付かされる。そんなことを繰り返しているのにいまだに寂しいと涙を流すじぶんが滑稽で、なんだかもう自分自身で見ているのも苦しくなっている。たぶんだけど、たぶんではなく絶対だと気付いていながらわからないフリをしているけれど、求めている ふつう はここにはない。あしたは泣かずに一日終えられますように、と願うことなく眠れる生活はここにはないのです。

悲しい、苦しい、そうやって泣き言ばかり言っているのにも疲れちゃった。わたしはただもがいているだけで、這い上がる努力をしているのか?本当に変わりたいと思ってるのか?それとも全て諦めてしまいたいのか。

感情を捨てたらそれはわたしじゃないの?

わたしにしか感じられないきもちがあって、あなたがいて、わたしがわたしだったから涙がでる、みたいな そういう経験をずっとしながら生きてきたとおもう。わたしがわたしだったから恋をしたし、精神を削りながら全力で愛したし、幸せでしんじゃうよってくらい愛してもらえたとおもう。いつだっていまが一番でありたいのに。手放せないでいる過去の記憶はどこかへしまって、いまをしあわせにしたいのに。

わたしは本当に、馬鹿でどうしようもない人間なので、ひとりになることやみじめになることがすごくすごく怖い。

 

さいきんは、何かを考えるのが億劫になっていた。その場の感情に身を任せて、「わたし、今はこう思うの」とどうしようもないほどワガママな自分ルールを振りかざして他人と関わっていた。思考を放棄することは楽だけれど、じぶんでも追いつけないほどあちらこちらへと飛躍するわたしの感情は、わたし自身をも疲弊させている。苦しくて泣くことにはもう疲れてしまった。指の隙間からどんどん落ちていくような刹那的なしあわせをすくっては握りしめて、そしてまた落ちていくそれにもうんざりしている。それでもすくいあげる行為をやめられないのは、わたしが人間だからなの。

本当につかれてしまったな。

季節が変わった

すきな映画をみました

メイド・イン・ホンコン/香港製造 という映画です。

 

めぐりあっちゃった、みたいな展開に弱いんだとおもった。額を流れる汗も、重たいまぶたも、垢抜けない服装もぜんぶいとしい、この前みたときと同じシーンでまた胸がきゅーっとつまって苦しくなった。すきな人の影響で、考え方やすきなものが変わるの、すごく美しいし、あたたかいことだとおもう。恋愛をすること、人と愛し合うことは、幸せに包まれるのと同じくらい苦しさと闘うことでもあり、不器用なわたしはいつも終わりが始まる予感に怯えてしまうけれど、愛しあったまま死ぬのならばふたりは永遠に愛しあった状態でいれる、と気づいた。ロマンチックだ。

 

さいきんのわたしは少しおかしかった。じぶんの感情がわからなかったり、食べものに味がしなかったり、気づくとボーッとしていることが多かった。けれど、やっと自分を取り戻してきている気がする。急ぎ足でおうちへ帰ってずっと気になっていた映画をみたり、友だちとダラダラくだらないことを話したり、窓からさす日差しで身体をあたためながら猫とまどろんだり、そんな穏やかな日常がたまらなくしあわせにおもえて、この瞬間をぎゅっと抱きしめていなきゃ、という気持ちにさせられる。日常の風景こそ美しい、と、ビフォアサンライズの中でイーサン・ホークが言っていた。普段なら気にも留めないような時間は、人肌みたいに温かなきもちが心に芽生える瞬間だった。それを愛しくおもえた事実を、忘れたくはないなあ。

嵐のように過ぎ去った夏が終わって、秋が来る。時間が止まればいいのに、とおもう瞬間が何度もあった夏だった。人生のなかで何番目に大切な夏になるのかはわからない。いちばんだと思った夏も、時間が経てばただの思い出になってしまうことをわたしはもう知っているし、感情や記憶もたいしてあてにはならない。

それでもわたしは人間なので、今年の夏も楽しかったな と、ちょっぴりセンチメンタルになりながら思い出を抱きしめて、また秋へと踏み出していくのです。

昔の恋を思い出してみた

 2016年の8月に書いてずっと下書きとして眠っていた文章をふたつほど発見したので載せてみます

3年前のわたしは、こんな感じだったみたい。

 

ーーーーーーーーーー

大好きな恋人がいて、頼りになる友達がいて、それなりに感謝している親もいて。そんな恵まれた環境にいても心の中はずっとドロドロしていて、それら全てを吐き出せる場所はない。と卑屈なわたしは感じてしまう。だからこんな意味もない文章を書き始めてしまった。誰にも言えない、言わない、そのくせ誰かに聞いてもらいたい、どうしようもないわたしの気持ち。

幸せになりたいのに心がそうさせない。このままでいいのか?このままじゃダメなのか?何も変わっていない自分と、少しずつ変化したと言ってくれる友と、心からわたしを想って変えてくれようとする恋人。何が正しいのかなあ。

 笑顔でいて欲しい、守ってあげたい、わたしの隣で笑っていて欲しい、他人のために何かをしてあげたいと、そう感じる相手ははじめてで。あと半年でハタチになるわたし。そう思える人に出会えたのは、早かったのか。遅かったのか。

そんな相手を傷つけてしまいそうになる時、自分の気持ちの大きさに不安になる。してはいけない、それをしたら傷つく、そう言われていることに手を伸ばしそうになる自分は、幸せをこの手で10階の窓から放り投げているのと同じだと思う。戻ってはこないし、急いで取りに行っても二人の関係はきっと、粉々に砕けたあと。

 

じゃあ、この寂しい気持ちは何で埋めればいいんだろう。死ぬほど寂しくて、涙が止まらなくて、あぁ自分はどうして今こんな風に泣いてるんだろうって、何もかもがわからない、それなのに大好きなあの人が隣にいない、いれない時、他人に縋ってしまうのは何故ダメなの?それがわたしの弱さ?

"しょうもない奴"

大好きなあの人にそう言われた。その通り。その通りなんだよ。わたしは本当に、嘘ばかりで、だらしなくて、いつもその場限りの薄っぺらい言葉を並べてるしょうもない奴なんだよ。

吐き出すため息さえ意味をなさない気がしている。

ずっとずっと、好きな人と一緒にいれたらいいのにな。

 ーーーーーーーーーー

大好きな人のことが頭から離れない。好きで好きで、たまらない。こんなに、こんなに、こんなに、こんなに好きだと思えるひとは人生で一人でいい。彼だけでいい。彼だけがいい。

まだわたしは20年しか生きていないというのに、とんでもない恋を、気持ちを、知ってしまったとおもう。大好きな人ともしさよならしてしまった後、わたしは誰か別の人と未来を築いていくことができるのだろうか。心から彼との未来だけを想像している。もちろん将来の話だけれど、それを、20歳という年齢が邪魔する。

 

高校の頃、すごく好きでどこにいても目で追ってしまうような恋をした。その人は遠く憧れの存在で、その人と自分の未来を考えることはできなかった。後々、その人と付き合う機会は一度訪れるのだけど、その頃にはわたしの気持ちはなくなっていた。あんなに好きだったのに、これから先どんな人と付き合っても忘れることはないだろうって、そう信じて疑わなかったのに、今のわたしの心にあの時の彼を見つけることはできない。

今の彼を過去にしたくない。ずっと、ずっと現在進行形で、彼の隣で笑いたい。どんな言葉を使えばいいかわからないくらい好きで、好きで好きでたまらない。どんな言葉を紡いでこの気持ちを表したらいいのかわからない。考えれば涙が出てくるし、目をつむれば顔が浮かんでくる、携帯を開けば彼との履歴ばかり眺め、彼がわたしに言った愛の言葉ばかり心の中で反芻している。今この離れている時間がたまらなく寂しくて、彼と会えない時間はこの世に必要ないと感じる。

 

どうすれば、ふたり常に笑顔でいれるんだろう。すこしの妥協も出来なくて、苦しいくらい喧嘩ばかり。毎日のように変化する自分の感情についていけないわたしは、いつも大好きで一番笑っててほしいと心から思う人を傷つけている。意味も方法もわからないけれど、たぶん強くならなくちゃいけない。妥協するのではなく、受け入れる必要がある。彼を受け入れたい。受け入れて、ぎゅっと抱きしめてあげたい。

ーーーーーーーーーー

 

ふたりの間にある1枚の布さえ煩わしい、20歳を生きる3年前のわたしはそんな恋愛をしていた。いまが、彼といる時間が自分の全てだと信じて疑わなかった。なんてことのない日々の出来事に身体が震えるほどのしあわせを感じ、会えない数時間にたまらないほど心が締め付けられるような感情を抱き、ずっと心をジリジリと焦がしていた。

ぜんぶ過去になってしまった。未来をみて恋をしていたわたしは、過去にしか存在しなくなってしまった。愛に生かされていたわたしの面影はもうどこにも見当たらず、ひとりぼっちになり、だけれどまた恋に傷つき、これからもそうやって生きていくのかもしれない。

もう疲れてしまったなあ。

この感情に名前をつけたい

この人がいなければ生きていけない

思い返してみれば、わたしの恋愛は今までずっとそうだった。好きな人ができると、一日中その人のことを考え、交わした会話や届いたメッセージを何度も何度も反芻し、友達に同じ話をし続け、日記が毎日好きな人の名前で埋まる。わたしは小学生ではじめて人を好きになった時から、恋をすると彼一色の世界に生きていた。

それを依存と呼ぶならば、わたしの恋愛はまさに依存することと同義なのかもしれない。人間失格というドラマの中で、好きな人がいなくなるのは世界が滅びるのと同じことだ、と堂本光一くんが言っていた。100回頷いた。好きな人はわたしにとって光であり、目を覚まし、1日を生きる理由なのだと思う。好きだと自覚した時から、世界は彼を中心に回りはじめる。笑う理由、泣く理由、幸せだと、悲しいと、寂しいと感じる理由、それらのほとんどが彼になり、どんどんと出口を失っていくのがわたしの恋愛だった。依存すればするほど、快感は二倍、三倍と膨れ上がり、手足をもぎ取られたわたしは独りでは歩けなくなり、それに気づいた時が天国のようにみえる地獄の始まりだと、知っているけれど、わたしはきっとまた同じことを繰り返すのだと思う。

 

好き とは何なのか。わたしは、どうしたい のか。何に悩んでいる のか。そういう、考えてもあまりわからないちょっと哲学的なことを、あえて考えてみる時間を自分に与えてみた。会いたいと焦がれる気持ちが恋なのであれば、たしかにわたしはいま恋をしているけれど、一緒に時間を過ごしたい、喜びや悲しみも共有したい、そう思うきもちが恋ならば、はたしてわたしは恋をしているといえるのか、と悩んでしまった。今までどんな人を好きになったのかな、今日は何をしてるのかな、そんなことに思いを馳せている時間、確かにわたしは好きという感情を抱いている、と、そう感じるけれど、一緒に幸せになる未来は想像がつかなかった。何故ならば、それはいたって簡単で、好きな人はわたしのことを好きではないからなのである。

どうなりたいか、それは非常に難しい問いです。肩書きが恋人に変わったところで、わたしの好きが圧倒的に大きければ、きっと今と同じように延々と悩み続けるだろうし、ありとあらゆる最悪の事態を想像し、ずっと心が疲弊するのだろうとも思った。

 

けれど、何故そんなに疲れる恋愛をするのか?その答えが、好きだから、であるということがこうやって感情を書き連ねたことで痛いほどわかった。そう、わたしは今、バカみたいに他人のことが好きで、バカみたいにずっと会いたい、触れたいとジリジリした気持ちに焦がされて、こんな支離滅裂な文章を書いてしまうほどに恋をしている。

 

恋をする、って、なんだかいいじゃない。わたし、まだ恋ができるんだなあ