ぶつけるならば愛

だれかのことを考えて一睡もできない夜をひさしぶりに過ごした。最初こそしくしくと泣いていたけれど途中からなんだかもうわけがわからなくなって、こんなことしてるのはわたしだけなんだろうな、とそんな卑屈なきもちがちらり顔を覗かせても、それでも考えた。

ふつう が何をさすのかわたしにはよく分からなくて、それが今までのわたしにとっての恋愛だったんだけれど、たぶんわたしはじぶんが持ってる数少ないデータだけで常識を作っていたと気づいた。好きならこうしてくれるはず、は次第に形を変えて、いつの間にか、こうしてくれなければ好きじゃない、にまで変化を遂げていた。してくれなかったことに延々と文句を言い続けてわたしの常識で縛りつけるの、めちゃくちゃに格好悪い。すごくはずかしいとおもった。じぶんの興味あるものやすきなものの方へどんどん向かっていって、わたしに知らない世界を見せてくれるところを好きになったんだよなあって、今まで何とも思わなかったものに価値が芽生えて、好きが増えていくのが嬉しかったんだよなあって、ぼんやり思い出した。すきだとおもったところを消すようなわたしではいたくないな。

さいきん喧嘩ばっかり、と言われて、ほんとにそうだね、と心で泣いた。わたしはいろんなことを求めすぎていて、ふたりが疲れていることを自覚しているのにそれでも暴力をやめない赤ちゃんだった。尖ったナイフを突きつけ合うんじゃなくて、やわらかいおまんじゅうを差し出し合うような関係でいたいよ。すきなひとがくれた、わたしといるとハッピーだよ、という言葉が本当に本当にうれしくて、もらった時も次の日の朝の通勤の電車でも泣いたの、今でも覚えているのに。もしかしたらたいした意味はない言葉だったかもしれないけれど、それでもわたしは嬉しくてたまらなかったのに。

わたしのすきばかりが積もっていくようで、ずっとこわかった。きもちが報われないことは、選ばれないことと同義なので、どこか恥ずかしく、悔しいことだと感じていた。愛をぶつけて拒絶されるのがこわくて、正面をみて向き合ったときに同じ方向を見ていない現実を突きつけられるのがこわくて、ずっとマイナスな感情ばかりぶつけていた。負の感情からくるすきやあいたいは、何の意味も持たないと知っていたのにね。

2020年は、大きな愛でもてなしていきたいな。わたしはまだまだ大人にはなれていないけれど、その分、一日が大人より相当濃ゆいんだから!大人より率直にたくさん恋できちゃうんだから!