この感情に名前をつけたい

この人がいなければ生きていけない

思い返してみれば、わたしの恋愛は今までずっとそうだった。好きな人ができると、一日中その人のことを考え、交わした会話や届いたメッセージを何度も何度も反芻し、友達に同じ話をし続け、日記が毎日好きな人の名前で埋まる。わたしは小学生ではじめて人を好きになった時から、恋をすると彼一色の世界に生きていた。

それを依存と呼ぶならば、わたしの恋愛はまさに依存することと同義なのかもしれない。人間失格というドラマの中で、好きな人がいなくなるのは世界が滅びるのと同じことだ、と堂本光一くんが言っていた。100回頷いた。好きな人はわたしにとって光であり、目を覚まし、1日を生きる理由なのだと思う。好きだと自覚した時から、世界は彼を中心に回りはじめる。笑う理由、泣く理由、幸せだと、悲しいと、寂しいと感じる理由、それらのほとんどが彼になり、どんどんと出口を失っていくのがわたしの恋愛だった。依存すればするほど、快感は二倍、三倍と膨れ上がり、手足をもぎ取られたわたしは独りでは歩けなくなり、それに気づいた時が天国のようにみえる地獄の始まりだと、知っているけれど、わたしはきっとまた同じことを繰り返すのだと思う。

 

好き とは何なのか。わたしは、どうしたい のか。何に悩んでいる のか。そういう、考えてもあまりわからないちょっと哲学的なことを、あえて考えてみる時間を自分に与えてみた。会いたいと焦がれる気持ちが恋なのであれば、たしかにわたしはいま恋をしているけれど、一緒に時間を過ごしたい、喜びや悲しみも共有したい、そう思うきもちが恋ならば、はたしてわたしは恋をしているといえるのか、と悩んでしまった。今までどんな人を好きになったのかな、今日は何をしてるのかな、そんなことに思いを馳せている時間、確かにわたしは好きという感情を抱いている、と、そう感じるけれど、一緒に幸せになる未来は想像がつかなかった。何故ならば、それはいたって簡単で、好きな人はわたしのことを好きではないからなのである。

どうなりたいか、それは非常に難しい問いです。肩書きが恋人に変わったところで、わたしの好きが圧倒的に大きければ、きっと今と同じように延々と悩み続けるだろうし、ありとあらゆる最悪の事態を想像し、ずっと心が疲弊するのだろうとも思った。

 

けれど、何故そんなに疲れる恋愛をするのか?その答えが、好きだから、であるということがこうやって感情を書き連ねたことで痛いほどわかった。そう、わたしは今、バカみたいに他人のことが好きで、バカみたいにずっと会いたい、触れたいとジリジリした気持ちに焦がされて、こんな支離滅裂な文章を書いてしまうほどに恋をしている。

 

恋をする、って、なんだかいいじゃない。わたし、まだ恋ができるんだなあ