やっと泣くことができた

「劇場」をみた。苦しかった。ほんとうにほんとうに苦しかった。いまみなければきっとこんな気持ちにはならなかったとおもう。だから、いまみてよかったとおもう。すごく好きだった人と2週間前に別れてから、はじめて声を上げて泣いた。どんなに涙を流そうと過去の情景を思い浮かべセンチメンタルなきもちになってみてもわたしの頬を伝うことはなかった涙が、簡単にあふれた。わたしは、すきだったひとの、好きなものや興味のあるものに対して、すごく純粋に、まるで少年のように向かっていく姿が大好きだった。それに振り回されているじぶんも嫌いではなかった。すきなひとの影響で、じぶんにとって価値をもたなかったものに価値が生まれ、すきが増えていくことが嬉しかった。世界が色づいていった。はずなのに、そんな姿がいつからかわたしを苛立たせ不安にさせるようになった。すきになればなるほど、すきだった部分を嫌いになった。頑張っている姿がわたしの目にはひどく滑稽にうつり、わたしではないものに夢中になっている時間を許せなくなった。そんなもの、とすきなひとの大切なものを見下すようになり、失敗や挫折を願うようになった。色づいたはずのわたしの世界からは、だんだんと色が消えていった。そんなじぶんが、ほんとうに嫌いだった。嫌いだったけれど、わたしは受け入れる優しさも信じる強さも持っていなかった。

仕方ない、という言葉はすごく便利だとおもう。ぜんぶ仕方なかった、とおもってしまえば、すごく楽になることができる。いまでも何かに取り憑かれたように、仕方なかったよ、と繰り返している。これは魔法の言葉であり、だけれど確かに真実だった。どうしようもなかった。もう、傷つけて傷ついて、疲れ果てていた。だからぜんぶ仕方なかった。もうあんな思いはしたくないよ。

元気になったらこの映画をまたみたい。そしたらどんな風にかんじるかなあ。時間のやさしさを知っているわたしは誰よりもつよくて、賢い。だから大丈夫だ。