上海に来て1年が経ちました
上海に来て実は2年が経ちました。1年前に書き溜めていた文字を今更公開してみる。
------------------------------------
仕事をして、恋をして、友人たちと悩んだり笑ったりしているうちにあっという間に1年が経ちました。
初めてのひとり暮らし、初めての海外生活、初めての転職、終わらないロックダウンや知らない言語に囲まれる生活はひどくストレスで、全てを上手にこなせない自分に嫌気がさすなどもした。こうありたい自分や、こうするべき自分を明確にしすぎてしまったせいで、そうあれない自分がどんどんと許せなくなっていた。できなかったぶん、自分をまた嫌いになった。もっと頑張らなければと思うのに、頑張っても上手くできない自分や、上手に頑張れない自分にうんざりしていた。生きているだけで偉いというのは幻想なのではないかと、心のどこかでは思っていた。
新しい場所で新しい生活を始めれば、何かが変わると思っていたけれど当然ながらそんなことは無かった。わたしはどこにいても、つまり日本にいても上海にいてもわたしという人間だった。自分を好きになるためには、自分の生活に納得するためには、変わるべきなのは環境ではなくわたし自身だと身をもって知れたことがこの一年で一番の成長であり、収穫だったのかもしれないとも思う。
ここじゃなくてもいいということはつまり、ここに居てもいいということ。わたしはこの一年で、自由で穏やかでそれでいて刺激的な上海という街が大好きになった。日本よりもみんなが自分のために生きているような気がするこの街を歩くと、わたしもわたし自身のために頑張ろうと前を向くことができる。誰もわたしに注目していないこの街の空気は、わたしにとっては寂しさではなく優しさのように感じている。
帰りたいと思う日もたくさんあったけれど、どこにいてもいいなら、ここでもっと頑張りたいと思うようになりました。後ろめたくない日々の積み重ねが、笑顔の自分をつくるとおもう。人生の中で、初めて自分から手を伸ばして掴んだ未来を今生きているということに意味があると思う。正解にしていくのは自分だから、ひとつひとつ自分で選んで歩いていきたい。
------------------------------------
なんだか紆余曲折あったようだけれど、1年前のわたしはこの街でどんなふうに生きていきたいかその答えを見つけていたみたい。今より前向きだ。
今は正直、そもそも正解とは何だったんだろうかと立ち止まっている。この手で掴んだ未来を生きて、生活して、働いて、人と出会って、だけど結局わたしは何になりたかったんだろう。何になれているんだろう。去年は光の中を歩いていたのに、今はずっと夜だ。
12月18日の記録
一瞬の、けれどどうしようもなく激しい衝動に突き動かされたわたしのこれまでの恥ずかしい行動の数々を思い出していた。一つ瞼の裏に景色が浮かぶと、堰を切ったみたいに思い出したくない記憶ばかりよみがえってくる。人間が否定形の命令を認識できないというのは本当だった。思い出すなとこころに命令すればするほど全ての恥ずかしい思い出が頭を満たしたりするなどした。
ずっと聴いていた、柔らかくて軽やかなアイドルの声を初めて雑音に感じている。テレビから流れる、意味がわからない異国の言葉の方が心地いい。いつか好きな人ができて、言葉のささいなニュアンスや優しさ、あたたかさをうまく汲み取れない自分をもどかしく感じたりするのだろうか。もっと誰かを知りたいと思う気持ちは、しばらく感じていなくてもう思い出せない。時々、自分が昔と何も変わっていないことに気づかされて、世界から音や光が消えたみたいに頭が真っ白になる。もう平気だと、もう成長したと、いつも強がって大丈夫なフリばかりしているだけなのではないかと。こうありたい自分に近づくため、薄汚く卑しい部分には覆いをかけて、きれいな部分だけ他人に見せているだけなのではないかと。変化したのはわたし自身ではなく、わたしの周りの人やわたしを取り巻く環境なのではないかと。わたしはずっと渇いていて、本当はどろどろの水の中に頭まで浸かってしまいたいと思っているのではないかと。
朝が来たらなかったことになってしまいそうなちくりとした痛み。なかなか消えない火傷の痕みたいに、時々思い出せるように残してみる。
正しさを振りかざせるのは、しあわせな人間の特権なのではないだろうか
家に帰ってきてねむりにつく前、きょうじぶんの口から溢れだした言葉たちをおもいかえしてどうしようもなく落ち着かないきもちになることがあった。わたしが呼吸するように紡いだ言葉は、もしかすると他人にとっては鋭い刃だったのではないかと、不安になっていた。目にうつる他人の姿がすべてではない 誰もが思考をして、感情をもち、泣いたり笑ったりしているはずだった。ときどき自分は、それを理解していないのではと怖くなる。わたしはひどく他人の痛みに鈍感だという愚かな自覚があるからこそ
ひとと対話をすることは、想像しているより難しいのかもしれないとおもう 感情の因数分解をしない人間に、わたしがどんなに必死に言葉を投げかけても届くことはない。じぶんの言葉や行動で他人のこころを動かそうだなんて、わたしはなんて傲慢な人間だったんだろう
あたらしい年がはじまったね
生活に光がみえる。さいきんの日々は、とても輝いている。ちいさな痛みや迷い、胸をちくりとさすいろいろな思い出はあるけれど、すべてを抱きしめても、わたしはじぶんの足で立てているとおもう
ベッドに寝転がっていると目に端に映る、おとうさんが掛けた絵 薄緑色のカーテン 椅子に無造作につまれた脱ぎっぱなしの洋服 オレンジ色の蛍光灯 机の端に積まれた数冊の本 昔好きだったひとにUFOキャッチャーでとってもらった大きなぬいぐるみ これがいまのわたしの世界 ここで密かに決意したあれこれを、決して無駄にしないように生きるぞ〜
美しくていい
おなじものをすてきだね、と言い合えないひとに認められたいわけじゃないってやっとわかった。わがままかもしれないけれど、わたしはいつだって、おいしい も たのしい も くるしい も共有できる人間でありたかった。これからだって、そうあるとおもう。
他人の目線はずっとこわい。じぶんの価値を決めるのは他人だとおもってずっと生きてきた。価値をうみだす力はわたし自身にしかないはずなのに、それを評価するのはわたしのなかではなぜか他人だった。でもそういうことじゃなくて、なんていうかこう、すてきだとおもえるものに近づく、みたいな その行為自体がうつくしいとされる世界であればいいのに、とも同時におもっていた。
わたしはとても、とてもこころの軽い人間だとおもう。だからいくらでも悲しく、苦しく、つらくなれた。いたい、と声をあげて泣くことは容易だった。おなじように、些細なことでよろこび、こころをいっぱいにさせて涙を流すこともできた。なんか、もっとじぶんのこと好きになってあげてね、っておもう。不完全なところしかないけれど、すてき に近づこうとしているわたしであれば、それはきっとどんなに歪でもうつくしいはずだとおもうのです。
みたいなマインドの、深夜1時。こういうちゃんとじぶんのこと認めてあげたいみたいなきもちをぜったいに忘れたくない。ほんとうにどうしようもない人間だけれど、すこしだけでもどうしようもなくない人間になりたいとおもって生きている いまよりすこしだけでも、他人を傷つけない人間になりたいとおもって生きている
やっと泣くことができた
「劇場」をみた。苦しかった。ほんとうにほんとうに苦しかった。いまみなければきっとこんな気持ちにはならなかったとおもう。だから、いまみてよかったとおもう。すごく好きだった人と2週間前に別れてから、はじめて声を上げて泣いた。どんなに涙を流そうと過去の情景を思い浮かべセンチメンタルなきもちになってみてもわたしの頬を伝うことはなかった涙が、簡単にあふれた。わたしは、すきだったひとの、好きなものや興味のあるものに対して、すごく純粋に、まるで少年のように向かっていく姿が大好きだった。それに振り回されているじぶんも嫌いではなかった。すきなひとの影響で、じぶんにとって価値をもたなかったものに価値が生まれ、すきが増えていくことが嬉しかった。世界が色づいていった。はずなのに、そんな姿がいつからかわたしを苛立たせ不安にさせるようになった。すきになればなるほど、すきだった部分を嫌いになった。頑張っている姿がわたしの目にはひどく滑稽にうつり、わたしではないものに夢中になっている時間を許せなくなった。そんなもの、とすきなひとの大切なものを見下すようになり、失敗や挫折を願うようになった。色づいたはずのわたしの世界からは、だんだんと色が消えていった。そんなじぶんが、ほんとうに嫌いだった。嫌いだったけれど、わたしは受け入れる優しさも信じる強さも持っていなかった。
仕方ない、という言葉はすごく便利だとおもう。ぜんぶ仕方なかった、とおもってしまえば、すごく楽になることができる。いまでも何かに取り憑かれたように、仕方なかったよ、と繰り返している。これは魔法の言葉であり、だけれど確かに真実だった。どうしようもなかった。もう、傷つけて傷ついて、疲れ果てていた。だからぜんぶ仕方なかった。もうあんな思いはしたくないよ。
元気になったらこの映画をまたみたい。そしたらどんな風にかんじるかなあ。時間のやさしさを知っているわたしは誰よりもつよくて、賢い。だから大丈夫だ。
べつべつの道を歩くってこういうことか
まとも がなにかわからないくせに、ずっとまともになりたいと言っていた。
泣かない世界、声を荒げることがない世界、じぶんじゃない誰かをおもって苦しくなることがない世界。そのどれにも住んだことがなくて、まとも とか、ふつう みたいな言葉をきくたびに頭を抱えていた。
愛情と怒りは紙一重だとおもう。すきなひとの笑顔をみただけで涙が出るわたしは、愛情の沸点とおなじくらい怒りのハードルも低かった。会いたいと焦がれて息ができなくなるような世界に生きていたくないけれど、会いたいと泣くほど焦がれた人に会える喜びを感じられない世界であってほしくもない。そんな矛盾を抱えて生きていくのかもしれない。抱きしめられて眠りたい夜しかない、ってたぶんずっと昔から言っているよね。きのうした決意がきょうはなんの意味も持たないわたしはどうしようもなく人間すぎるけれど、それを言い訳にしていろんなことから逃げてきた。ひとに優しくできないこと、怒りを抑えられないこと、それらは人間らしさでもなんでもなかった。
「しあわせ、を形容する言葉がもっともっとたくさんあったらいいのにな」とわたしがいった。「たくさんあるよ、明日がこなければいいのになあ、だってそれのひとつでしょ?」と返ってきて、またひとつ好きが積もった。それも思い出。
わたしたちは、すごくあたたかいように見えて、実はちがっていたんだね。繋いだ手のなかには、ドロドロしたいろんなあれこれがつまっていた。触れ合った肌のぬくもりや汗で湿ったTシャツ、おふろのあとのシャンプーの香り、わたしたちの関係はそういうやさしいものばかりで出来ているわけではなかった。涙や、冷たい雨や、ひとりでこっそりと枕に沈めるため息、わたしたちを作っていたのはそういう悲しくて切なくて痛みを伴うあれこれだったのだとおもう。
ようやく解放された。されたんだよね?わたしがしてあげたのかもしれない。いっしょにいる術がわからなくなったのだから、もう一生交わることなく生きていきたい。いまはまだ、ちょっぴりすきでどうしても頭に浮かんでしまうひと。わたしの知らない場所で、しあわせになってね。